私の心情(66)-お金との向き合い方21-英国80年代の国営企業民営化とPEPsの役割
ちょっと今回は色合いの違った内容です。というのも、最近時々「日銀ETFの出口戦略」の話を聞くようになりました。その議論で以前考えていたことをまとめるチャンスをいただけましたので、その内容をブログにも収載しようというわけです。内容としては、日銀ETFを個人の資産形成に繋げられないかという出口戦略です。ただ、私はその具体的な方法というよりは、①英国で80年代に進められた国営企業の民営化(これが日銀ETFの放出になるのかな)とその受け皿としてスタートした非課税口座PEPsを紹介し、②このPEPsが現在英国個人金融資産の5%を占める株式型ISAの前身だったことから、③日銀ETFの受け皿としてNISAやiDeCoといった選択肢もあるのではないか、ということを考えるきっかけになればいいかと考えています。ちょっと長いブログで、硬い表現ですが、ご容赦ください。
日銀ETFを個人の資産形成に活用するための一考察
金融緩和政策の一環で日本銀行が2010年12月から始めた市場からのETFの買い上げは、2021年3月までの累計で簿価36.6兆円[1]に達し、時価評価では50兆円以上[2]といわれている。その規模の大きさから、市場売却いわゆる出口戦略が注目されている。市場放出となれば、株価の下落要因として認識され、その噂だけで株価が下落するといったことが起きうる[3]。
一方、今後の日本の超高齢社会を見据えると、個人金融資産の積み上げが必須の状況といえる。日本銀行が保有するETFを直接市場に放出せず、簿価で個人に売却することはできないだろうか[4]。iDeCo(個人型確定拠出年金)の特別枠とか英国のLifetime ISA(退職時点までの引出制限付きISA、個人貯蓄口座)のような非課税口座で退職時点まで売却できないものとすれば、市場への放出は20年、30年といった時間をかけて行うことになり、市場の波乱要因とはなりにくい。さらに個人は簿価で購入するため、購入時点で時価との差額がすでに利益と認識できる。一段と非課税口座の保有希望者が増える可能性も出てこよう。
本稿は、その実現可能性を探るため、先行事例として、80年代の英国で国営企業の民営化が推し進められた時期に導入されたPEPs(Personal Equity Plan、個人株式非課税口座)を分析する。
個人金融資産の5%に達するISAの前身PEPs
PEPsは1987年に導入され、その後ISA(Individual Savings Account、個人貯蓄口座)に引き継がれる形で拡大を続け、今や英国成人の4割が口座を保有するとまで言われる非課税制度に成長した。
英国ISAの創設は1999年。それまであったPEPsとTESSA(Tax Exempt Special Savings Account、非課税特別貯蓄口座)を、それぞれ株式型ISAと預金型ISAとして引き継ぐ形で導入された。ISAの資産残高は、株式型ISAが3140億ポンド、預金型ISAが2696億ポンド、合計で5844億ポンドとなり、個人金融資産の8.8%を占めるまでに拡大した(2019年4月5日現在)[5]。
そのうち、日本のISA(少額投資非課税制度)の元となった株式型ISA、すなわちPEPsを引き継いだ部分の残高はISA残高の約半分(個人金融資産の4.7%)を占め、日本の個人金融資産1948兆円[6]に当てはめると91.6兆円に相当する規模となっている。2019年末のNISAの残高は8.6兆円に留まっており[7]、さらに確定拠出年金の残高13.3兆円[8]を加えても、英国の4分の1に満たない。
Thatcher政権時代の国営企業の民営化
1979年から90年まで英国の首相を務めたMargaret Thatcher氏は、70年代の高インフレ、高金利による経済の停滞から抜け出すための施策として、多くの国営企業の民営化を実施した。この時代の民営化は、Popular capitalismとか、Capital-owned democracyといった言葉で称されている。
PEPsの導入
1986年3月18日、当時のLawson財務相が発表した86年予算教書でPersonal Equity Plan(個人株式非課税口座)の導入が盛り込まれた。PEPsの趣旨は「小口の投資家、なかでもこれまで投資をしてこなかった人たちに投資を広げるもの」として位置付けられている[9]。また明確な意図は言及されていないが、PEPsの投資対象は英国企業の株式とされていること、その後の制度の改善のなかでこの非課税制度と当時の国営企業の民営化と絡めて議会で議論されたことを考えると、PEPsの導入と国営企業の民営化は不可分な関連があることが窺い知れる。
1987年1月からスタートしたPEPsは当初年間拠出上限額が2400ポンド、最低保有期間が12か月、対象者は18歳以上の英国民とされていた。1987年1月には1日当たり2000人以上の口座開設が行われたといわれ、初年度だけで27万人がPEPsを利用した。1口座当たりの平均拠出額は1800ポンドで、総額は4.8億ポンド(当時の為替レート1ポンド=230円として計算すると、1100億円)。また当初の試算では財政上のコストは2500万ポンドと見込まれていた。
しかし、1987年10月のブラックマンデーの影響もあって、88年に上限額を3000ポンドに引き上げたものの、1988年の口座利用者は12万人、拠出額も2億ポンドと前年の4割にとどまった。The Timeのコラムでは”Birthday blues for unpopular PEPs”と題してこの停滞を表現した。
制度の拡充とその議論からみるPEPs導入の意図
1989年には、①上限額を4800ポンドに引き上げ(88年に2400ポンドから3000ポンドに引き上げられている)、②Unit Trustの内訳を540ポンドから2400ポンドに引き上げ、③拠出は現金だけでなく、新株でも可能に、④最低保有期間の撤廃、⑤口座内での現金保有ルールも撤廃、の5項目の改善を行っている。こうした改革は市場からは評価[10]され、PEPsの利用の急拡大につながった。
1989年5月10日に行われた議会での質疑では、その改定に関する質疑が行われ、改めてPEPs導入の意義(=個人に民営化企業の株式を保有させる)が窺える。Lamont財務相(当時)の発言のポイントは
- 10年前、成人に占める投資家比率はわずか7%だったが、現在20%にまで上昇した
- (地域の金融機関によると)この口座で初めて投資をしたという人が多かった
- 前年、不必要でコスト高になる要件の緩和が業界から要望され、以下の点を改善した
- 拠出の上限を2400ポンドから4800ポンドに引き上げる。
- 合わせてUnit Trustの上限(全体の上限の内数)を540ポンドから2400ポンドに引き上げる。
- 但し、主に英国株に投資するUnit trustを対象とする
- 90年4月より75%ルールを導入し、英国株保有比率が75%以上であれば、2400ポンドの対象、それ以下であれば従来通りの水準
そして改めて今回の変更は「民営化だけに資するものではなく、PEPsという制度の改善である」[11]と述べて、議論の端々に国営企業の民営化とPEPsの関連が強く意識されていることがわかる。
PEPsの口座残高の推移
1987年12月末27万口座、4.4億ポンドでスタートしたPEPsは、89年の改正を経て、急速にその残高を拡大させた。1990年4月5日(英国の財政年度は4月6日~翌年4月5日まで)時点で、26億ポンドと2年3カ月で5.9倍に残高が増加、その後、ISAへの移管となる1999年までにその残高は214倍の940億ポンドに達した(当時の為替レートに近い1ポンド=185円で換算すると17.4兆円)。
まとめ
英国におけるPEPsは、80年代の国営企業民営化政策の受け皿として創設され、残高が拡大した。その口座を引き継いだ株式型ISAは、現在口座保有者637.7万人、残高3140億ポンドにまで成長した。1口座当たり4.9万ポンド、1ポンド=140円で換算すると700万円弱の資産に相当する。「貯蓄から資産形成へ」を標榜する我が国においても、「国営企業の民営化を日本銀行の保有するETFの個人への売却」としてとらえ、日本銀行が保有するETFを資産形成が求められる現役層に移転させる施策は十分に意味を持つだろう。
[1] 日本銀行が発表した「巣数連動型上場投資信託受益権(ETF)及び不動産投資法人投資口(J-REIT)の買い付け結果並びにETFの貸付結果を2010年12月から2021年3月末までフィンウェル研究所が累計算出。
[2] 日本経済新聞2021年2月25日『「日銀離れ」探る株式市場 ETF減額、正常化へ一歩』ではニッセイ基礎研究所の試算として含み資産を約15.8兆円と紹介している。
[3] 2021年3月19日の株式市場は日銀の政策決定会合でのETF買い入れ方針の変更で、TOPIXが上昇し、日経平均は下落に転じた。
[4] 櫛田誠希、証券アナリストジャーナル「日銀保有ETFの行方は」2020年11月号で「(国民に保有してもらうことは)目指す意味のある出口政策となり得る」と寄稿。
[5] 英国統計局のIndividual Savings Account StatisticsならびにUnited Kingdom National Account:The Blue Book 2019
[6] 日本銀行調査統計局「2020年第4四半期の資金循環(速報)」、2021年3月17日
[7] 残高の公表されているデータは2019年12月末が直近。金融庁、「NISA口座の利用状況調査(2019年12月末時点)」
[8] 金融審議会市場WG、厚生労働省提出資料「iDeCoをはじめとした私的年金の現状と課題」2019年4月12日、P12
[9] “specially designed to encourage smaller savers, and particularly those who never previously have invested in equity in their lives”, Official Report, 18 March 1986; Vol.94, c.178
[10] ”PEPs are given the kiss of life”(The Financial Times, 18 March,1989)とか、“Personal equity plans pepped up thanks to Chancellor’s tinkering”(The Times, 18 March, 1989)と評された
[11] “They are designed not specifically for privatization, but to improve the product of PEPs”, Official Report, 10 May 1989; Vol. 152, cc 949-972