私の心情(240)―地方都市移住59―沖縄で賃貸生活

今回は沖縄県那覇市に移住されたKさん、68歳の地方都市移住インタビューをご紹介します。6月中旬、沖縄に100年ぶりの大雨をもたらした豪雨の翌日、那覇市の喫茶店で待ち合わせしてお話を伺いました。

Kさんの場合、東京から移住したというよりは東京を経由してバンコクから那覇に移住したというのが正確な表現かもしれません。それが3年前。しかし、移住した後の生活は、60代以降の生活のひとつの理想像が見えて、まさにどこか後味のいいコーヒーのような取材でした。

30代で転職

仙台生まれのKさんは、都合14年にわたる海外生活を経験されたグローバル・ビジネス・パーソンです。特にアジアに深くかかわり続ける人生を送ってきたことが特徴といえます。東京の有名私立大学を卒業して自動車メーカーの国際部門に就職され、国内ディーラーでの営業成績も抜群で、復職後にアジア向けの輸出、企画業務を担当することになります。ここからが長くアジアと関わり続ける人生のスタートになります。

1990年、35歳の時に、自動車メーカーの将来性に疑問を持ち、転職を決意。いくつもの候補の中からクレジットカード会社に新天地を求めましたが、なんとそこでもその主要業務は変わらずアジアに関連するものでした。

アジアに関わり続けて14年の海外生活

92年から4年間ほどはオーストリアに駐在したとのことですが、その後はバンコクに転勤。99年に帰国するまでの4年間は、アジア通貨危機も含めて激動のアジア勤務となりました。帰国後はeコマースの担当に変わって、その拡大に尽力、その後大阪から福岡に転勤するなかで、沖縄に仕事での関係が始まりました。さらに東京に戻って海外拠点の監査業務へとキャリアを重ねて、60歳の定年を迎えます。全世界を飛び回るなかで、eコマースの主要エリアがアジアであったこと、海外監査でもアジアもカバーすることから、相変わらずアジアとの関わり合いの多い日々だったようです。

さらにこれらすべての経験を踏まえた結果、60歳以降も本社勤務の再雇用として再びアジアに転勤することになります。台湾そしてバンコクと、65歳になるまで5年間、現地での経営の重責を担い、2021年2月に帰国し、退社。

国内で南の方に移住したい

そして翌月には沖縄に移住しました。

なぜ、那覇市だったのか。これをKさんに聞いてみたところ、「東南アジアは医療体制と医療保険に課題があり、永住するところとは思えなかったが、でも南の方が良い」 これが沖縄を移住先に決めたKさんの理由です。確かに、Kさんが福岡での勤務時代、沖縄も営業の範囲内だったので、月に1回程度の出張をしていたことで馴染みがあった点も大きいかもしれません。

那覇市で家賃14万円の3LDK

現在、住んでいるのは、県庁などがあるオフィス街と那覇空港の中間地点、壺川というエリアにある70㎡、3LDKの賃貸マンションです。家賃は14万円/月と現地ではちょっと高めとのことですが、便利さからみると東京に比べて決して高いとは思えません。

ただ、なぜ賃貸なのか、なぜマンションを購入しなかったのかはちょっと気になるところです。ちなみに、現地の住宅物件サイトでみると、那覇市内の築6年のマンション、3LDK、70㎡台で5000万円台でしたから、購入できないわけではないと思います。

賃貸マンションを選んだ理由

その理由とは、「購入する金融資産は十分あるが、購入しても損が出るだけ。どうせ最後は終の棲家として施設に入るのなら、それまでは賃貸でいいんじゃないかと思った」とのこと。

お話を伺ってみると、バブル崩壊でマンション価格の暴落がトラウマになっているようです。90年頃の大阪勤務時代に高槻市にマンションを、3700万円で購入されていました。頭金1200万円と住宅ローン2500万円で資金を調達。転勤中は賃貸に出していたとのことですが、18-19年後にそこに住んでいた人から買い取りたいとの申し出があり、1900万円で売却することになりました。残債は1000万円くらいあったので、結局、手元に残ったのは900万円。残念な結果だと自己評価されています。

確かに儲かったというわけではありませんが、バブル崩壊のこの時期であれば誰もが避けられなかったこと。それでも頭金と手元に残った資金の差でみるとマイナス額は300万円。住宅ローン利息分を考慮しても、約20年間の家賃収入もあり、決して悲観するほどではないと思います。

ただこの経験が、最後まで賃貸での生活を指向する原動力のひとつになっているのでしょうし、そもそも平均して3-4年に1度ずつ転勤する生活で賃貸での生活にもなじんでいるとも思いました。それに、最終的にはもう一度転居をすることになるのかもしれないというのは、改めて思うことでもあります。

十分な年金収入

収入面でみると、講師としての収入は月5-6万円、年間60₋70万円とそれほど多くありません。ただ、年金が充実しているので、敢えて正規雇用ではなく自由な時間を選ぶことができたわけです。

その年金ですが、まずは厚生年金が年間280万円で、これに金融機関の企業年金が年間170万円。特に企業年金は終身で受け取れるとのことで、ちょっと羨ましいと感じました。2つあわせると、年間450万円の収入が終身で確保できているわけですから、これは羨ましい限りです。これに最初に就職した自動車メーカーの年金も年19万円あるとのことで、合計すると、現状では月43万円強の収入を確保していることになります。

ところでKさんは年金に関して、厳しい指摘もされていました。Kさんの年齢ですと、62歳から64歳までの3年間特別支給の老齢厚生年金が受け取れることになっています。しかし、60歳からの再雇用契約でも年収は1000万円を超えていたことから、在職老齢年金の制度で老齢厚生年金が全額支給停止になったことです。

今年は5年に一度の財政検証が行われますが、在職老齢年金の制度の見直しが議論されるとの報道もあります。働ける高齢者が働き続けられるように制度が緩和または撤廃されることは大切な気がします。

物価はそれほど安くない

支出の面で伺った点を整理してみます。地方都市移住は物価が安いことから生活費の削減ができるというのが前提です。しかし、Kさんによると、那覇はそれほど安いわけではないとのこと。

ご存じの通り、相次ぐ台風や100年に一度の豪雨などがあるたびに、必要な生活物資が十分に届かないことが話題になっています。そうしたことが続いているため、「つい、買いだめしてしまう」らしく、結局、消費財は総じて高いものになるようです。しかも四季のない沖縄では、四季の食材の配送にはコストがかかることも一因に思われます。

遊興費はそれほどかかっていないとのことです。ダイブマスターの資格や船舶免許を持っていることから、以前はかなり遊びに係る費用も多かったようですが、今は年齢的にも無理がきかないので自粛されていて、その面の支出はあまりかかっていません。ということで、ほぼ毎月、クレジットカードで4-5万円の持ち出しになっているとのことでした。

金とドルで作り上げてきた資産

資産状況も聞いています。Kさんの金融資産は8500万円前後で、その内訳は円の預金が4000万円程度、金が2000万円以上、ドル預金が2000万円程度とのこと。資産形成は、もっぱらドル預金と金を活用してきたわけです。株式投資をしなかったわけではありません。

クレジットカード会社とはいえ、いやだからこそ、若いうちは体育会系のノリで給料は飲み食いに使ってしまいがちでした。お金について考えるようになったのが50歳ちょっと前、ちょうど福岡での勤務の頃からでした。まずは勉強からしなければと思って、毎日NY市場の株価動向をノートに付けていたとのこと。そもそもクレジットカード会社の勤務ですから、株価や為替の動向に関しても決して疎いわけではありません。30年ほど前からの投資歴ですが、リーマンショック前に株式は売却していました。当時保有していた海外資産に投資する投資信託は解約さえできない状況になったのですが、それでも大損というほどではなかったようです。ただそれ以来、投資信託はやらないことにしています。

その一方で海外勤務時代は給与がドルでの支給だったことから、飲み明かした消費重視の時代があっても、徐々にドルでの貯蓄にシフトし、10万ドルを上回る残高になっています。今は、そのドル資産も国内の銀行に移してあり、利息の高さと最近の円安もあって、円評価額はかなりの水準になっています。それと、平均単価4000円/グラム台で購入した、総重量2㎏になる金。その価格は現在、1万3000円/グラム台と歴史的な高水準になっていることから、こちらも大きな資産になっています。

海外移住の教訓

ところで長い海外生活を続けていたことから、海外で終の棲家を探すことは考えなかったのかと聞いてみました。実際マレーシアにLong Stayのステータスを持っていたとのことでしたが、やはり長く住んでみると医療サービスの弱さが致命的だと思うようになって、最後は日本に住みたいと切り替えたそうです。

ただ、マレーシアでの永住権には現地の銀行に400₋500万円の預金をすることが条件ですから、取りやめると、それを回収することになります。それが本当に大変だったと振り返ってくれました。「自分は長くアジア諸国に住んでいたので何とかなったが、普通の人がこの預金を取り返すのはなかなか難しい」と指摘しています。

那覇でもアジアの人材に教育を

那覇市での退職後の生活は、仕事も充実していて楽しく過ごしていらっしゃいます。今の仕事は学校の講師です。移住して、ハローワークで職を探したそうですが、豊富な海外経験、金融での業務、コンプライアンス業務の高い知見、マネージメント経験、どれをとっても一流なのですが、それがオーバースペックで、かえって仕事がみつからなかったようです。

ところが、偶然に専門学校での講師のしごとがみつかって、教えることになったそうです。そこではネパール、インドネシア、バングラデシュなどからの留学生が多く、彼らに教えるうちに就職の相談にのるようになり、それが本業となり、今の肩書は「就職アドバイザー」。ここにも長い東南アジアでの経験とコンプライアンス業務での知見が生きています。日本で働くための基礎知識を教え、就職アドバイスにも効果が大きかったようです。

現在1学年30人程度を教えるまでになっています。年収200万円での正規雇用を提示されたそうですが、のんびりやりたいとのことで、50分1コマを週4-6コマ担当する講師の立場を望まれました。

インタビューを振り返って

「後味のいいコーヒーのような」と表現させていただいたインタビューは1時間半にも及びました。特に、アジアの若者に日本での就職のアドバイスをされている時のお話は、聞いていてもうれしくなるようなものでした。私自身、退職してからの仕事は社会に貢献できるものにならないだろうかという思いを強めていますから、余計に思いに共感できるのかもしれません。

50歳くらいから始めた資産形成、そして移住先として那覇を選らんだ背景などは、Kさんの個別事情が大きいのですが、その一方で長く海外での生活経験を積んだKさんでもやはり年金の重要性を感じていることは多くの人が共有できる感覚ではないでしょうか。

退職後の生活は、勤労収入、年金収入、資産収入で支えるとよく伝えてきましたが、退職後の心持ちもこの3つが重要だと気づかされました。勤労を通じた社会貢献、持続力のある年金収入、そして安心できる資産水準、そのどれもが上手くバランスされていることが大切なのです。