私の心情(124)―地方都市移住38-34歳から2拠点生活。これも移住か?(岡山)
Kさんは山口県の出身です。4人兄弟の末っ子として生まれ、大阪の大学に進学。その後、新卒で就職した食品メーカーでのサラリーマン生活も大阪からのスタートでした。その会社に40年間在職、その後3年間を公務員として働き、2019年に65歳で退職され、岡山に移住されています。しかし、岡山のご自宅はもう30年近く前に購入されています。私には当初、「これが定年後の移住と呼べるのか」と迷ってしまうような、ちょっとユニークなパターンでした。
20年も前から2拠点生活
Kさんの最初の赴任地である大阪での生活は、大学時代から通算で16年に及びました。仕事を始めて2年で、同じ中学の同級生だった奥様と結婚され、大阪でマンションを購入。しかし、7年経ったところで次の赴任地、岡山に移ることになります。その時、大阪で購入したマンションは売却し、岡山での生活用に新たにマンション買い替えを決断します。その岡山の自宅が、定年後の今の生活の拠点なのです。普通であれば、そこを家族の生活拠点としてKさんは単身赴任するということでしょうから、東京で退職を迎えて岡山に移ったとしても、これは移住と呼べるのかと、ちょっと躊躇うところです。
しかし、考えてみれば実家にUターン移住するのと同じです。当初、広島の転勤時には、この岡山のご自宅から新幹線で広島まで通勤をされていました。その間に2人のお子さまを育てられ、次の大阪、東京での勤務の折は、単身赴任ではなく、奥様も一緒に行かれています。いや、実は奥様は月の半分くらいは岡山に戻られて、パン作りを教えていらっしゃいましたから、これは「2拠点生活」といってもいいかもしれません。最近、コロナ禍で注目され始めた「2拠点生活」ですが、Kさんの場合には岡山と大阪・東京での生活を20年以上も前から始められていたわけです。これもやはり定年後の移住の1つのパターンといってもいいでしょう。
バブルのピーク直前に最初のマンションを売却
「20年以上にわたる2拠点生活はかなり大変だったのではありませんか」と伺うと、「大阪、東京の家賃分は上乗せだったのですが、何とか出来きましたよ」とのこと。もちろん、奥様は1月のうち半分くらいは岡山に戻っていらっしゃったとのことですから、そうしたご負担も大きかったもしれません。ただ、全体の資金計画は上手くいったように窺えます。
大阪で最初にマンションを購入されたのが27歳、1981年のこと。その後、円高不況といわれる時期もありましたが、バブル景気でマンション価格は上昇していきます。このマンションを売却されたのが1988年、34歳の時。バブル経済のピークとなる少し前に売却されているので、最高値ではありませんが、十分に値上がりしていたとのこと。そう、株式相場の格言のひとつである、「たい焼きのしっぽは他人にくれてやれ」の言葉通り、最高値を追わない売却だったのが良かったかもしれません。意図したものではなかったのですが、岡山への転勤という生活の必要に迫られて取った行動が、折よく上手くいったということでしょうか。
厳しい時代もあったがやはり勤労所得が一番
大阪のマンションの売却額は岡山のマンション購入の頭金に十分なったようですが、「それでも少しは住宅ローンを組まざるを得なかった」とのこと。ただ、貯蓄をするよりもそのローンの返済を優先させ、一時的には貯蓄残高0円にまでなっても早めに完済しようとしたそうです。
もちろん勤めていた会社では48歳で役員になり、その会社が上場を果たしたこともあって、サラリーマン生活の後半には貯蓄もしっかりとできるようになりました。仕事は決して楽だったわけではない。「文字にする以上に厳しい現実があった」とのことですが、何と言っても「勤労所得が一番大切だ」と実感されているようです。
夢を求めて
Kさんは現在67歳。「退職してみて、生活費水準は変わりましたか」と伺ったところ、「大阪・東京の家賃分が減った以外にはほとんど変わっていません」とのこと。大阪、東京での生活のうちに、子どもさんが大学入学、就職、結婚と独立されていることから、既に夫婦2人の生活が中心だったこともあり、岡山に戻っても変わらない生活水準を続けてられるようです。
ところで会社勤めのあと公務員として2年働かれたのは、それまでできなかった「好きな分野で働いてみたい」という思いを実現するためでした。今は、年金収入と資産収入(運用はしていないとのこと)だけになっていますが、毎日ジムに通い、英会話のレッスンを受け、現役時代にできなかったことを続けていらっしゃいます。「子供のころの小さな夢、“英語を話せる人になる”を追い求めています」とメールには書かれています。
岡山は良い街
「岡山は良いところです。都会と田舎の両面が堪能できます。岡山城、後楽園、大原美術館などの観光地があり、また山登りや海水浴を楽しんでいますし、地元の祭りなどにもよく出かけています」とは、Kさん。当初、仕事の事情で家族を振り回したのではないかと気になっていたようですが、子どもたちの友人関係や地域のコミュニティも普通に広がり、今も残っているのがうれしいとおっしゃいます。
Kさんは「岡山を終の棲家にしよう」と考えていらっしゃいますが、今のマンションは築39年となったこともあり、高齢者住宅も視野に入れてどこかに住み替えることも必要だと理解されています。
ところで、奥様も山口県の出身。一昨年、高校の同窓会に出たところ、進学・就職ともにご自身と同じような方が多く、しかも出身地に戻らないことにした方も多かったとのこと。地方の過疎化、実家の空き家、墓仕舞いなどは大きな話題にならざるを得ないことを実感されたようです。これは決して特別な問題ではありません。
取材を終えて
岡山在住のKさんとのインタビューはユニークなものとなりました。当初はオンラインで企画したのですが、Kさんのパソコン環境が対応できないとのことで、なんと!文通のようなスタートとなりました。しかも最初は、郵送されてきた「私の場合の移住レポート」と題するA4の1枚のレポートから始まったのです。
確かにまどろっこしさも感じましたが、一方でいただいた情報をじっくり吟味して、さらに聞きたいことを伺うという“情報を熟成させながらの”インタビューということになり、この雰囲気も得難いものだと思いました。自宅からの仕事というある意味で時間が自由に取れるスタイルが定着したからこそできる楽しいインタビューになりました。
最後にいただいたメールには、「妻は中学1年生の同級生です。23歳の時に偶然、大阪のスーパーでばったり出会いました。両方の実家は近所で・・・・・現在でも故郷はいろいろな形で影響しています」、「妻は料理が好きで、調理師、栄養士、パン作りの構成免許を取得、今やそば打ちも習いに行っている。彼女の満足した今の生活リズムができている」と書かれています。
山口で生まれ、広島、大阪、東京と仕事で転戦し、終の棲家として岡山を選ぶ。そして山口は常に心の支え。私も岐阜にちょっと帰省したくなりました。